銅鐸博物館
野洲市歴史民俗博物館と言うのが正式名称みたいですが、通称、銅鐸博物館です。
歴史民俗博物館と言っても、基本的に銅鐸の展示ばかりなのです。
野洲市の大岩山から明治から昭和に掛けて、24個もの銅鐸が出土しています。その中には、高さ134.7cm、重さ45.47kgの日本最大の巨大銅鐸もありました。つまり銅鐸の町なのです。
まあ、他の展示があまりないことも、銅鐸がなければ、展示するものがない町なのがよく分かりますね。いえいえ、銅鐸がすごいので、他のものはかすんでしまう、それほどの銅鐸ってことですね。一応、説明セーフかな?
さて、銅鐸の説明ですが、こちらもギリギリセーフか、アウトぐらいの説明になります。
銅鐸というのは、銅で出来ている、祭礼の器具か、楽器(といわれているもの)です。これが鉄であったら、錆びてボロボロになり、現代には残っていません。カウベルと言う家畜の首に付けるベルがありますが、銅鐸の先祖は4000年ぐらい前に大陸にあった、そのような用途のもの、つまりカウベルでした(らしい)。
それが縄文時代の後期、縄文時代の終わりごろに日本に伝わりました。
縄文時代は、1万5,000年前から2300年前頃までですが、銅鐸は2500年前に日本に伝わり、作られています。134.7cmのものが作られる事でも分かりますが、もはやカウベルではなくなってきます。
もちろん、説が間違っていて、大陸のカウベルとのつながりのないものかも知れませんが、とにかく牛の首に掛けるような小さなものではなく、大きなものですから、用途が基本的に不明なのですね。
ですから、楽器、祭礼の道具と言われています。
この銅鐸は、弥生時代の途中か後期で消えていきます。
そもそも縄文と弥生の線引きはしっかりと出来ないのですが、弥生時代の前半ぐらいが銅鐸の全盛期です。大まかに言うと、弥生時代が主に銅鐸の時代で、弥生以降は作られていません。
弥生時代と、次の古墳時代も明確な区切りは出来ませんが、古墳時代には銅鐸はありません。古墳時代は銅剣(銅矛)があるのみです。
古墳時代とは日本武尊の時代で、草薙の剣などがあったりしますね。古代国家が形作られてきた時代みたいです。もちろん、鉄器もあったのかも知れませんが、鉄は錆びてボロボロになり残りませんよね。ですから、銅剣や銅鏡のみが出土します。
銅鐸が祭礼のものだとすると、祭礼は権力や部族、国家、宗教に付随しますので、その辺りで日本の勢力図が変わったと言えます。銅鐸は何か隠されたような感じで発掘されるらしいので、旧勢力が攻められたときに慌てて隠したのかも知れません。慌てて隠したとすると、ご神体のようなものかもしれません。
攻めたのは、新勢力。この辺りから、今の時代、今の日本、倭の国の始まり、日本武命が邪神を平定した故事、歴史の時代で、この少し前は、日本の初代天皇の神武天皇の時代で、新勢力(やまと)と、旧勢力が混在した時代です。
日本起源は2600年とされます。まあ、この年数の正確性は当てにはなりませんが、おおよそで捉えれば、この辺りが銅鐸の旧勢力との長いせめぎ合いの時代と付合して、日本成立の歴史だったのでしょう。
銅鐸博物館のロビーにある、銅鐸の複製です。
出土したものは、緑青に覆われていて青くさび付いていますが、こちらは綺麗です。もちろん、本物も当時はこういう綺麗な銅の色をしていました。
これもかなり大きいのですが、概ね一抱えある大きさが銅鐸では普通です。
祭礼の器具や楽器と言われていますが、説明書とともに出土するものではありませんので、それとて、確証があるものではありません。
ほんと、何だと思います?
日本が国家として成立する以前に、こういうものを作っていた勢力がいたと言う事ですね。
これ以降、展示室内は、写真撮影が禁止になっています。
中には色々な銅鐸や銅鐸のレプリカが展示してあります。
レプリカは、出土してその後地元から遺失して、中には行方不明になっているものや、また国立博物館や海外などで展示されていて、レプリカ展示になっているものなどです。
しかし、本物とレプリカが混在していますが、どちらも区別は付かないですよ。レプリカになっているものがあると言う事は、地元に止め置けない貴重なものが多かったと言う事ですね。
弥生の森歴史公園
さて、銅鐸博物館は、この弥生の森歴史公園の一角にあります。
銅鐸博物館の正面には、池や高床倉庫、竪穴住居などの公園が広がっています。
竪穴式住居の復元をしていますが、希望者には縄文式、弥生式土器の制作やこの住居での生活体験が出来るそうです。
中はこんな感じ。正確な構造は分からないと思いますが、まあ、こんな感じでしょう。
荒縄が使ってありますが、竪穴式は縄文から、古墳時代ぐらいまで庶民の住居として使われましたので、稲作が始まっている時代の縄で作っている位置づけのものでしょうね。
ははあ、こんな感じで煮炊きしていたんですね。って、これ、床がコンクリートじゃない? まあ、展示施設ですからね。
復元された高床式住居です。この形式は地域にもよりますが、ほとんどの場合、倉庫利用かも知れません。
その場合、高床式倉庫です。この復元住居は中に入ることも出来ます。
ちなみに、竪穴式、高床式と書いていますが、現代では正式には、竪穴住居、高床倉庫と命名されているようです。
縄文式土器なども、縄文土器、弥生土器と言います。同じ時代でも様々な形式や焼結温度のものが出土し、いわゆる「式」というものはないことがわかりました。
高床倉庫の中です。住居としても使い、穀物倉庫としても使いました。使われた年代も広いですので、細かなところや用途は様々です。
これは角材やチョウツガイが使われていますが、そのような年代の位置づけの復元ということでしょうね。おそらく古墳時代ころから板材になっているのではと思います。
竪穴住居も縄文から古墳ぐらいまで使いましたが、高床住居も住居として、倉庫として、弥生時代ころから古墳時代、飛鳥時代、平安時代の貴族の穀物倉庫など、地域的には近代まで使われています。
まあ、特にこう言うような形式は、日本だけのものではなく、アジア、アメリカ、南米、欧州の色々な時代で使われ、様々な変形があります。
冬でしたので、地上部は枯れていますが、古代ハスの大賀ハスです。2000年以上前の遺跡から種が三粒発見され、その内の一粒が発芽に成功しました。
この他にも、弥生の森歴史公園には、古代米の赤米の水田もあり、田植え体験なども出来るようです。
銅鐸博物館と弥生の森歴史公園観光案内
料金
大人200円、高大生150円、小中学生100円
時間
9時~17時(入館は16時30分まで、体験学習受付は15時まで)
休刊日
月曜日(祝日の場合は開館、その翌日が休館)、祝日の翌日(土曜日・日曜日、祝日の場合は開館)
その他、年始年末等。臨時休館あり。
駐車場 無料
弥生の森歴史公園の散策は、無料。
宿泊
近辺には、観光名所が多いので、湖東近辺の宿をおすすめします。
湖東守山・近江八幡・彦根)の宿
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